昭和五十四年四月七日 朝の御理解  若先生


御理解第二十九節
「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労して居るから永う散らぬ。」


 最近これは私が実感することですが、自分の心の貧しさと云うかほんとにあのう狭さと云うようなものを特に最近それを実感する訳ですが、親先生が仰る”心一つで全てを創る”と云ういわゆる豊かな物の世界に住みたいならば豊かな心になりなさいと仰るのにも、にも拘らず自分の心の貧しさをいよいよこう実感して居る。これではものが育つ筈がない、人が育つ筈ないと云うことを思うんです。 いよいよ自分の心のこの貧しさを最近どういう訳か実感して仕方がないんですが、今朝も朝親先生の代わりを出さして頂いて控え室に居らせて頂く間に或人の事をふと思うて、まあ普通常識で云うならばとても人間的には許されないことなんですが、その事をしきりに祈ると云うよりも心の中で責めておる訳ですね。心の中で色々とそういう葛藤しながら御祈念をさして頂きよりましたらあの今教会の屋根に使って有ります銅板のあの何て云う色ですかねあの錆が出た後のいわゆる青錆が出たところのあの色を頂く訳です。ですから確かにまあ云うならばその人の人間の錆が出て居るんですけれども、あれが鉄錆かトタン錆ぐらいならどんこん出来んのでしょうけど、質的には確かに素晴らしいものをその方は持って居られる。その錆が出たことを私は責めて居るわけですけども、実際この銅板の一番素晴らしい姿と云うのはあれはあの錆の出たところの方が素晴らしいんですね。ですからそういう見方をどうしてしないんだろうかと自分で思うんです。自分で頂いて居ったそれこそ神様の目からみた悪人とは悪い方に悪い方に取るのを悪人と云い、善人とはいい方にいい方に取るのを善人と云うと云うことを自分で頂いておきながらも最近は特に悪い方に悪い方に取る自分の習性と云うか心の貧しさから出たもんでしょうけど、そういう自分を見ながらほんとにホトホト自分自身が嫌になっておるまあ一つは体の体調がこういう状態だからだと思うんですが、そして又今日はこの御理解二十九節を頂いてまあ全然どういう事なのかあのう分からないまんまになんですけども、只漠然と云えることは信心には確かに自覚が要る。何にするんでもやっぱ自覚が要る第一なんですけども、自覚にも二つあると思うですねえ。親先生がよく仰るほんとに”我屑の子の自覚”と云うものともう一つはほんとに自分の心の心境の有難さ素晴らしさにほんとに自分こそ神様じゃなかろうかと生神じゃなかろうかと云う様ないわゆる二つのものがあるんですが、私は今日の御理解から思うと桜の花の信心と云うのはほんとに有難いと云う信心と云うか自分は生神じゃなかろうかと云う様なあの悟り方そういう自覚が桜の花的な信心ではなかろうか。確かにこれは散りやすい。けど自分と云う人間はほんとに何という見苦しい何という汚い何という貧しいと云うこれは散ろうにも散られんのですね。私の心がそれこそ抜けきらない。確かにこういう信心ならばあのう自分は苦しいですよ、確かに。ここに書いてある様に苦労して居るからと云う確かに自分では苦しいけれどもその自覚こそ本当は信心のいよいよの基礎になるところではなかろうかと云う気をこの御理解二十九節を頂きながらその事を思います。確かに降っても有難いなら照っても有難いと云うその二つが要るんでしょうけれど、ほんとに私達の信心が育つ私達の心が育つと云う根本基盤にはやっぱり降った時にこそ物は育つ。これは先日頂いた「楽天家の人は信心が育たん」と云うことを頂いたことが有るんですが確かにそうだと思います。それこそ自分の今心の中に或それこそ自分をさいなむ鬼が居る時にしっかり自分はそれこそ我が心の中の鬼を退治さして頂くわけだし中途半端のそれこそ鬼に喰われて鬼退治じゃないけれどもいよいよ細うならして頂いて鬼退治をさして頂く。中途半端だからそれこそ鬼を喰うことも出来ないと云うことにもなりましょう。確かに自分ではしるしいしきついんですけれども一遍はいよいよ「我鬼の子の自覚」が要るんじゃなかろうかと、今日はしきりにその事を思わせて頂きました。有難うございました。